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子供の頃の父の想い出

東京で父母、姉兄私の五人の生活を送っていた。
{十、八、五歳}上の子が学校へ行ってる間に
母と私は神戸から迎えに来た祖父に連れられ家
を後にした。
原因は父の女性問題にあったようだが今思うと
残された子供達は精神的に酷く傷付いた事だろう
近くに住む父の従兄弟が子供達の世話を引き受け
てくれたり、父の二号さんだった人とその母親が
同居して子供達の面倒を良くみてくれたと聞いて
いる。

一年程して親戚の人が間に入り私達は東京に戻る
事になるが父母が共に住む事は無かった。
父は神田の神保町と新橋に料理屋を経営していた。
神保町の店は二号さんに任せていたが二階はお座敷
一階はテーブル席とカウンターとかなり、流行って
いたようだ。
奥が住まいになっていて、当時では珍しい内風呂も
付けて父は亡くなる迄そこで生活していた。

新橋の店は少し小さかったが、板前さん二人、洗い
の人、お運びさん六人程、責任者の女性{多分愛人}
が働いていた。
すぐ近くに私達親子の住まいがあって、時々父が顔
を見せてくれるのが嬉しかった。
本当は子煩悩で横浜の中華街に食事行ったり、銀座で
洋服を誂えてくれたり、郊外に遊びに行ったりと数える程の想い出しかないが、私の中ではとても濃い記憶
として懐かしく残っている。

何時見ても三つ揃いのスーツを着て金縁のメガネ、鼻
下に髭をたくわえ、ほっそりとして、素敵な紳士だったように覚えている。
確かに商売上手だったんだろう、昔は甲斐性が有れば
女遊びは当然だったようで、潔癖性の母には耐えられ
無かったようだ。
新橋駅の近くでの生活だったから、夕方から銀座に
散歩に出掛けたり、日比谷公園に遊びに行ったり、
快適に行動出来てたように思う。

自宅の二階は父を頼って親戚の男子達が大学に通う
のにと神戸からやってきて何時も誰かが住み着いて
いたようだった。
面倒見が良かったから皆に好かれ、悪い評判は聞か
なかった。

その父が太平洋戦争開戦前夜、以前から躰を壊して
入退院を繰り返したいたのが急変して亡くなった。
父に怒鳴られたり、叩かれたりした覚えは無い変わ
り、躰に触れて甘えた記憶も無い。
何時も少し距離を置いて遠慮勝ちに接していたように
思う。
本当はうんと甘えたかったけど父も甘えて欲しかったのではと今更ながら悔やまれる。
時代遅れも甚だしい話で、年寄りの戯言と馬鹿にされてもしょうがないですね。
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プロフィール

HN:
M子
年齢:
94
HP:
性別:
女性
誕生日:
1931/03/05
職業:
主婦
趣味:
DVD観賞
自己紹介:
05年10月10日から09年8月17日にかけての旧「M子のお花畑」の保管庫。
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