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旧ブログのログです
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或る暑い夏の日、毎日のように自動車教習所に通う夫の姿があった、まさかとは思うが車なんか買わないよなって、いつの間にかすんなり免許を取ってきた。
其れまでには、原付自転車に乗っていて、二人乗りして何処へでも連れ回してくれてた。 ある日の事、ポリスマンに二人乗りは駄目だって注意を受けたりもした。 これは妊娠八ヶ月くらいの昭和三十一年の話です。 子供は年子{としご}で二人生まれ、小学校に通う頃に車を買うからと突然言い出した、其れまでペーパー ドライバーだったのに免許取得して数年経ってるからとても心配だった。 S、三十九年頃だったと思うが、今でこそ車の無い家のほうが少ないようだが、その頃は持ってる家のほうが少なかった。 買うと言ってから数日して乗って帰ってきたのには些か驚きました。 嬉しそうに運転して何処かへ行きましたが、帰って来た時、新車でピカピカだった車のあちこちに少し擦った後を見付け、やっぱりね、ってペーパードライバーがいきなり運転するのは無茶に決まってるのに。 毎日乗り回してる内に何とか行けるようになったら、今度は横に乗れって、それからは国道26号線をひたすら和歌山方向に毎日のように日参しました。 国道も結構がら空きの状態だったので運転の練習に持ってこいのようでした。 横に座ってて怖い思いは数え切れない程しました、例えば信号で止まって、さあー発進しょうとすると「あれっ」って言うんです、はよ言うたらエンストです。 後ろの車に気遣うし、焦りました、だから乗せて欲しくないのに、一人やときっと不安だったんでしょう。 車の運転の事は解りませんが、何時も右足が遊んでるから、アクセルとブレーキに足かけて何時でもブレーキ掛けられるようにして欲しいって言ったら、笑って取り合ってくれなかったけど、あれは左足で両方の動作をするものなのかと、勝手に判断してます。 一番怖かったのは、川の所でバックして方向転換する時です、土手から川に転落しないかと、降ろしてくれって叫びそうになりました。 あちらは、死なばもろとも、って思ってるんでしょうが、まだ此の世に未練がたっぷり有りましたから。 路上駐車の違反切符も何回か切られ、其の都度払いに行きましたが当時は5000円でした。 今はどのくらいなんでしょう、スピード違反はとんでも無い話で、他のドライバーから冷たい視線を送られる程のろい運転でした。 夫の実家が有る四国まで車に乗りフェリーで行った事が有りますが、車を船に乗せるあの時の緊張は今でも忘れられないです。 夫は平然としてましたが、私は海に転落するのではと恐怖でいっぱいでした、勿論騒ぎ立てはしません、でも心は凍り付いてました。 運転をするのに向いてる人、向かない人が居ると思います、他の人に乗せて貰ったら安心してられるのに夫の運転だけは何時まで経っても信用出来ませんでした。 車なんて必要ないから廃車にして欲しいと何度か言いました、七年くらい経った頃はマフラーが破損してたせいか暴走族の車と間違いそうな派手な音を響かせてたし、ある日の事電話のベルが、とうとうやりました 右折しようとした車に直進の車が突っ込んだんです。 勿論夫の車が悪いのです、今の私でも直進が優先だって知ってます。 多分ボーッとしてたんでしょう、夫の車が右折したんです、左のドアがぐしゃっと壊れてました。 何時も私が座ってる場所じゃないですか、内心ほっとしました、これで車とは、おさらば出来ると。 子供達は乗るのを嫌がってたので、後部座席は殆ど座る事も無く新品状態でしたが、ある交差点で修理工場のおじさんに連れられて行く車とお別れしました。 その後が大変夫は背骨がずれたらしく、入院生活をする事になり、亡くなるまで腰痛に悩まされていました。 そんな姿を見てるから子供達は決して、運転免許を取ろうとはしません。 今思う事は自分の躰は傷めたたけれど、人身事故を犯す事無く車と縁が切れたから良かったかな?。 車にまつわるエピソードは数え切れないほど有りますが、私の胸に想い出としてしまって置きましょう。 PR 我が家とTVの出会いは、今上陛下のご成婚の時の数日前だった、其れまでは専らラジオが唯一の楽しみでNHKだけだったのが民放が参入するようになって、好む局にダイヤルを合わせて聞いたもんだ。
私がTVの映像を観たのは、力道山のプロレスの中継で、それも喫茶店に入って観たのだが、店の中はお客がいっぱいで、結局お茶も飲まずに出てきた記憶があるが、当時は街頭TVも有って広場などで大勢の人達を集めて見せてくれたものだ。 TVは高価な物だったので、主に飲食店などが客寄せの為置いていたが、一般家庭では持ってる所は少なかった、冗談で「アンテナだけ立てとこか」って言ってたのが懐かしい。 ご成婚を期にTVが一気に普及してきたように思うがそれでも持って無い家庭のほうが多かった。 今思うと吹き出すが、放映してる時間が決まってて昼間とか深夜は映らない、そこで間は幕のような布を垂れ下がらしておくのです、まるで映画館のスクリーンの前の緞帳のように、布も重々しい感じでした。 家にTVがやって来た時は少なからず興奮して、息苦しく、嬉しかったように思います。 現在はどうでしょう、一軒の家に何台か受像器が有って当たり前、しかも24時間、何処かの局で何かを放映している、何時の間にかカラーにはなってる、誰でもが買い求められるお手頃の値段になってる。 これは電話にも言える事で、近頃携帯電話を持って無い人のほうが珍しくて、小学生でも持って絵文字でメールしたりと、目まぐるしく進んで行く時代に取り残されそうな気がします。 TVより電話の普及は遅かった、回線が少なかったんでしょう、私のとこは電話局からで無く、電話番号の売買する店が有って其処で当時としては高い金額で買い取り設置してもらったが、電話機の有る家は少なかった、今思えば嘘みたいな話で信じて貰えないかも。 近くの本屋さんで何気無くみつけた、昔々のふる〜い映画のDVD、それも一枚500円、一度に何枚か買いました。
1930年代から50年代のです、終戦後乏しいおこずかいで、近くの映画館へ足繁く通ったもんです。 殆ど観た物ですが、とても懐かしくて、私と同じ年代の方だったら、是非観たいと思われるでしょう。 今の若い方達が知ってるのは”風と共に去りぬ”くらいでしょうが、シャルルボアイエの”ガス燈”ジョン・ウエインの”駅馬車”他にも名画が50枚もあるんです。 TVでも宣伝したますが、あれはセットで買わないと駄目だけど、普通に好きな物だけ買い求めてます。 全て洋画です、若い方達が観られても結構面白いと思います、昔の映画ですから勿論モノクロです。 英語の会話のお勉強の助けにもなるのではと考えますが、誰に頼まれた訳でも無いのに、力を入れて宣伝してるのは何故でしょう、決してリベートは貰ってませんから。 本屋さんでは500円で買いましたが、数日後梅田のヨドバシに行ったら、多くの種類のが出てたんです、店頭で10%引き、ポイントカードが10%付く、本屋さんで8枚も買ったのに、残念。 物を買う時はじっくりと、慎重に考えてからでないと慌てりゃ損するって事です、反省してます。 神戸の湊川神社の近辺に住んでいた私達は、空襲で焼け出されて、その時すでに戦死していた母の二番目の弟の妻と二人の幼い子供の住む三宮で同居する事になる、春の出来事です。
四歳と一歳の女の子を抱えての叔母の生活は大変だったようだが、同居する事によって少しは楽になったのでは無かろうか。 初夏に入り、疎開させて有った衣類を入れ替えに祖父が借りてた山の家に、母の妹、叔父の妻、姉、私、四人で行った時、神戸の街並みを見下ろしながら、いっぱい話したような想い出があるが、内容迄は記憶に残ってない。 それから三日程して大空襲に見舞われる事になる。 朝早く空襲警報のサイレンが鳴り響き、母は大急ぎでご飯を炊いておにぎりにする。 それぞれが荷物を持つ、叔母は上の子を背負い、子供達の着替え等の荷物を、姉は大きなリュックを母はそれなりの荷物を{自分の事しか解らない}私は下の子をおんぶして、両肩に着替えの衣類など入った大きな布のカバンを提げ、お米を入れた{四キロ程}袋と当時大事な番傘{紙に油を塗った傘}を持ってその上お弁当迄、十三歳くらいの子供には荷が重すぎで、流石に勘弁してよと、お弁当は叔母が持ってくれる事になった。 三人は一緒に出たが、母は後から出たようで、ガード下に非難して、目前に焼夷弾が落ち家が燃えさかるのを見ながら母は絶対に死んだと思い、後は泣きながら逃げたが、三人は何時しかバラバラになって、人々が「こっちはあかん」今度は反対側から「こっちはあかん」って声が聞こえ、どっちに行けば良いのかと、煙って見難かったが下を見て歩いてると、市電の線路が目に入ってきた、それを伝って歩いてると、兵庫県庁の前にでる事が出来た。 荷物を下におろし、背中の子は静かだがどうなってるか心配になり下ろした、目を開けて黙ってこっちを見ている、思わず「生きてたんや?」って声を掛けました、お互い子供同士の喜びの対面だったのです。 あの戦火の中を奇遇と言うか母の上の弟が私達の事を心配して探しに来てくれたのと、ばったり会う事が出来、荷物の一部を持って貰いました。 叔父は他の人達を探すべく別れましたが、叔父の家に行く迄の道すがら縁台を出して、うちわで扇ぎながらのんびり涼んでるおっちゃんの姿を見て、今朝の恐ろしい体験は何やったんやって思わずにはいられませんでした。 叔父の家に着いて、祖父母や叔母に「おかあさんが死んだ」って泣きました。 夕方になって、死んだと思った母と共に姉は怪我をしてたけどやってきました。 叔母は何時まで待っても帰ってくる事は無かったのです、何処でどうなったのか二度と姿を見ることなく下の子供を残した侭行方不明です。 孤児になった子は、祖父母に大事に育てられ高校を出たら、お勤めに出て職場で知り合った男性と結婚をして二人の子供に恵まれ、祖父の残した土地に家を建て夫は勤め、自分は喫茶店を経営してますが、親戚の人達からも可愛がられ皆に大事にされ威張って生活してたように思うのに、祖父母から親の居る子より愛情をもらってた子の言う、一言がどうにも許せなくて今では音信を絶ってます。 自分が子供を育ててみて、孫を育てる大変さが解ってると思うのにと思うと悔しくて、受けた恩を忘れたら人間失格だと思います、とんだ愚痴になりました。 十一月十一日は私達夫婦の結婚記念日です。
五十回目は二人で仲良く迎えるつもりだったのに、今一人でこの日を迎えるのは凄く辛いです。 見合いから半年で結婚をしましたが、その間大阪、神戸と行き来して時々デートを重ねました。 ある時は六甲山、又は須磨の海岸と神戸に来てくれる時は、全ての会計は彼持ち、処がです困るのは大阪に出向く時、彼と私の収入の違いです。 私は生活するだけでやっとなのに、交通費の出費は大きな負担だったのです。 約束してても何とか理由を付けては断りの電話を入れました、それも当日に、今では電話の無い家は皆無だと思いますが、当時は有る家の方が少なかったのです。 近所の公衆電話を置いている家の人に頼んで市 外電話を申し込んで貰って掛ける、すると何で来ないのとか長電話になる、心の中で、短くして切って下さいよ、 って思うのにぐだぐだ喋られると、切ってからの代金が高くなる、これが又痛い出費、今思うと悲惨な交際期間だった、このことを後々話すと、そんなに大変って知らなかった、言えば良かったのに、って言うけど 私にも多少のプライドは有るから言えるもんですか。 本町の伯母の世話でお見合いをしましたが、近所の会社の専務さんが、伯母の処に働く娘さんを見て、良い人が居るからと世話を仕掛けたのですが、既に婚約者が居たので、そんなに良い人なら内の姪はどうでしょう?と言う事で、祖母と母と三人で出向くこととなり ましたが後で彼が言うには、皆が解散した後祖母がやって来て、宜しくお願いします、って頭を下げられたから貰う気になったんだそうです。 それを聞いた時、何時も私の事を心に掛けて見てくれてた祖母が、この人なら安心して任せられると思ったんでしょう、感謝で胸がいっぱいになりました。 母には経済力が無いので親戚が寄って、集って一応恥ずかしく無い程度の支度を整えてくれて、後の結婚式 披露宴他の出費は、何も言わず全部、彼が出してくれました。 縁は異な物って言いますが、運命の糸に手繰られたように結び着くのだと思いました。 四国と神戸の人間が大阪で出会って、仲良く夫婦になるなんて想像もしてなかったのに。 街に出て、老夫婦らしき人達を見てどちらかが、偉そうな態度をしてると、もっと優しく接してあげて、と言いたいし、後、残り少ない人生を仲良く暮らしてよって思います。 私達は一回も、結婚記念日に何かお祝いをしたって事は無いんです、改めて何かするっていうのは嫌う人で 何でも無い日に思いがけない、贈り物や旅行に連れて行ってくれたりと言うなれば天の邪鬼なんでしょう。 照れ屋なのかも、根が優しんだからそれで十分です。 | カレンダー
プロフィール
HN:
M子
年齢:
94
HP:
性別:
女性
誕生日:
1931/03/05
職業:
主婦
趣味:
DVD観賞
自己紹介:
05年10月10日から09年8月17日にかけての旧「M子のお花畑」の保管庫。
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