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旧ブログのログです
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私の姉の事について書いてみたい、何故なら私の子供すらはっきりとした事情を知らないと思うから。
姉、兄、妹の私で親の愛を受けて育ってきた、姉は三人の中で頭も容貌もよかったと思う。 健康そのもので女学校を出て、戦時中の事ゆえ勤労動員で兵庫県庁にお勤めに出ていた。 三宮の空襲で焼夷弾の破片が顎に入った。 共に逃げていた叔母は上の娘をおんぶして、私は下の子をおんぶして、母、姉とも皆バラバラで逃げて取り敢えず歩いて一時間程の叔父の家に行く。 早朝から逃げ歩いて夕方近く母、姉と顔を合わす事が出来たが叔母の姿は見る事も無く今日に至っている。 私の背中におんぶされていた一歳の女の子{従姉妹}は父が戦死していたから、此の時母を失い孤児となった、それからすぐ疎開したので姉の傷の治療は田舎で受ける事となる。 今でも医療事故が頻繁に有るのに、当時は薬は勿論消毒が完全にされていたとは思えない。 でも県庁の出張所にお勤めしながら通院して治療を受けていたが、良くなるどころか段々容体が悪くなり死を宣言されるまでになった。 寝たきりでおしめをするようになり、床擦れで骨が見えるくらい腐ってきていた。 皆が諦めたけど母は必死になって看病して何とか持ち直したが、戦後神戸に戻っても寝たきりの状態は続いた、それに難聴が重なって本人は辛かったと思う。 母の末の弟が、嫌がる姉を励まして毎日歩行練習をさせ歩かす事に成功した、何でも諦めては駄目だと言う事を身をもって教えてくれたと姉は当時の事を感謝してるようだ。 種々あったがはしょる事にする後に兄の勤める会社で働いたり、母が入院した時の付き添いをしてくれたりと考えられないような活躍をしてくれていたが、母が亡くなり、私の兄が亡くたった頃から体調を崩し又立つ事が出来ず這う生活が始まった。 元々兄夫婦が母、姉を引き取って暮らしていたので、現在も義姉と共に、難聴の傷害年金を貰って生活している。 何故健康な人がこんな事になったか考えた、あの時の傷の治療に碌に消毒もしない器具を使って何らかの黴菌が作用したように思えて、今更言っても仕方が無いとは思うけど、姉は何事も運命と受け容れてるようだ 八十に近いが読書、字幕付きのTVとよく見てるので私より情報通だし何と言っても明るくて「私は三十代の気持ちで居るのよ」って陽気に話てくれるので何だか救われる気がします。 月二回位い手紙を貰いますが、姉のように上手く書けないのを理由に返事はあまり書きませんクールだと言われても返す言葉がないです。 PR それはお祭りの夜すれ違った青年と目が合った。
その時、胸の鼓動が高鳴り勝手に運命的なものを感じた、それが私の片想いの始まりだった。 幸いと言うか、知り合いを介して近所と言う事もあって話を交わすようになり、彼の顔を見るとドキドキして息苦しく感じ、食べ物が喉を通らなくなっていった あ〜これが恋なんだ、ちょっと肥り気味だった躰は見る見る内にほっそりとなった。 あの時は今と違ってスタイルは良かったのにと懐かしく感じる。 今、肥り気味だから”恋”をすればスリムになれるのにって思うけど、恋も若さのエネルギーって物が無いとね〜、今有るのは食い気だけなのにちょっと無理ってもんでしょう。 千日前の劇場に有名歌手の実演があり、誘われて観に行ったり、食事をしたり、彼の生い立ちを聞いたりとこれは私が大阪の親戚に暫く居た時の話で、神戸の実家に帰えってから家にも訪ねてきた事も、今と違って遠距離恋愛は続く筈もなく儚く自然消滅してしまった が、その間、手も触れた事も無く、今では死語に近いけど純情だったんでしょう。 それ以後胸が苦しくなるような人との出会いも無く、結婚して平凡な生活を送ってきたけど、考えたら此の 平凡な生活こそが最大の幸せだったと思えるようになりました。 これはあくまで私の一方的な片思いの初恋の話です。 女学校時代の想い出を書いてみよう。
神戸の三宮{現センター街}に住んでいた頃、学校に行かず航空機の工場へ動員に駆り出され、伝票の請求どうりに部品を出す係りをしていた。 お昼の食事は色黒の丸いおにぎりが二個貰えたが、食料難の時代だから嬉しかった記憶がある。 ある日上空にB29と言う、でかい飛行機が多数飛来して一トン爆弾を数十発落としていった。 地響きが、躰に恐ろしく伝わった、海岸の側に有った工場から山の方に皆必死で逃げ延びた。 戦中は荷物の運搬は主に馬が荷車を挽いていたから帰りの国道に馬の死骸を多数目にした。 道路には池にでもなりそうな、大きな穴がぼこぼこと現在はTVで他国の戦争シーンを見て、全く同じだなって 思う。 三宮の大空襲で家を焼かれ、田舎へと疎開する。 学校を転校しても学徒動員は変わりなく、今度は小娘がでかい機械の前に立ち何やら削るのだが、今考えると、此の戦争は負けるよなって、思うでしょ。 艦載機が飛んできて、いきなり恐ろしい爆音と共に急降下して機銃掃射でバリバリバリって撃ってくる、此の世の地獄を見てるようで生きた心地はしなかった。 やっと終戦、三年生の夏だった、ほっとして嬉しかったが、今度は山の開墾、炭焼き、畑仕事、田植え、と毎日駆り出され、学校へ百姓の仕事に行ってるって感じだった。 四年生になりやっと学生の本分である学業が始まる。 私達の担任は家庭科の先生だったので毎朝五分間裁縫の運針をやらされる、いち、に、さん、し、って言いながら、初めは上手く出来なくて嫌だったが、馴れてくると針運びが良く、後々とても感謝する事になる。 毎朝三キロ程の道を寝坊して遅刻しそうになりながら走って通学したのも今は懐かしいし、田舎ならではの夕日が沈む風景、夜空の星の輝き、川での洗濯、畑仕事、収穫の喜び、と誰でもが経験出来ないような事を体験出来て良かったと今では何か得したような気分です。 あっと国語の先生を忘れるとこだった。 戦中は若い男を見掛ける事が少なかったが、まだ独身で国語を教えていた先生が居た。 いずれ同僚の先生との結婚が決まっていたようだが、此の先生が毎日、生徒に日記を提出させて、赤ペンで感想を書いて返してくれる。 それが楽しみで毎日何かを書いて出してたのが、成人しても日記を付ける癖がついて、今こうして書くのも苦にならず書ける事に感謝したい。 私が大阪の住人になって半世紀が経つ。
親戚の薦めで見合い結婚をした。 夫となる人は愛媛から大阪に出て商売人 として生活していた。 夫の生家は昔の旧家で其の父は庄屋の二男 で母の実家は町医者と言う家柄だったから 世が世であれば私如きが嫁げる家では無く、 後に小姑{妹二人}にじんわり虐められた。 初めから別居して時々帰省するだけだから ど〜って事は無い、それに舅はとても優しく 接してくれたが、姑は何を思ったかちょっと 威張った物言いをした。 舅は結婚して出て行った息子、娘や嫁の私には 優しかったが姑には暴君だった。 例えば「おい、おい」と呼ぶと「なんでしょう」 と敷居の所で座ってお伺いをたてる。 気に入らぬ事があれば怒鳴る今で言うDVである。 だから私自体は嫁、姑で苦労する事は無かったと 思う、私がやばい立場に成る前に身を持って守って くれる頼もしい夫が居てくれたから。 思えば姑は先代の姑や夫に酷い目に合いながら死を 迎えるまで辛い人生を送ったようだ。 今、私が姑と呼ばれる立場にになった。 ど〜も嫁、姑と言う言葉は好きになれない、人は皆 一己の人格を持って生きているから、どっちが偉い とか上だとか関係無いのでは?。 お互いに何か得意な分野が有るはずだから、それを 認め合えば良いのに何故か粗探しをして、非難し合 うから摩擦が起きる。 昔は姑の存在は絶対的だったが現在は、嫁の力が大 で有るようだ、でも考えてみたら他家の大切な娘さ んがドラ息子と共に暮らして居るだけの話、別個の 人格を持って生活してるだけなのに、うちの嫁がっ て偉そうに姑面して言うのは如何なものか。 大体他家に嫁にやったとか、嫁に貰ったとか品物じゃ 有るまいし、唯、言って置きたいのは折角家族になったんだから、仲良くお付き合いして欲しいなって。 それには、裏、表、隠し事無く、嘘を付かない、此の 位は守りたいものだ。 この場を借りて言いたい事が、我が家の息子の伴侶との出会いは私にとって、この世に神様が存在するならば素晴らしい贈り物を頂いたような気持ちです。 自然な流れで、何気ない心遣いをしてくれるんです。 本当は、常に尊敬に値する人だから好きなんです。 大体三個の内一個は絶対って言っても過言
では無い程忘れる事が多くなってきている。 今がそれで、最後にこれをクリックしてって 言われたのに、大分時が経ってからふっと思い 出す始末、歳の性にして何とか誤魔化してはい るけど、あ〜先が思い遣られる。 だからこれ以上ボケさせないようにと、優しい ナイスガイがこの場を与えてくれたんだと思う と、何だか嬉しいような、うっ{涙 本当は最後のクリックの押し忘れをやりたかった だけだったりして、御免なさ〜い。 | カレンダー
プロフィール
HN:
M子
年齢:
94
HP:
性別:
女性
誕生日:
1931/03/05
職業:
主婦
趣味:
DVD観賞
自己紹介:
05年10月10日から09年8月17日にかけての旧「M子のお花畑」の保管庫。
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